性質は両面をあわせ持つ
人や自分の好ましいと思う部分も、見る人を変えれば好ましくないという場合もあります。
反対に考えれば、好ましくない部分も見方を変えれば、好ましくなる場合があるという事です。
裏表と表現し、良くない方を裏、良い方を表と考えがちですが
「裏」という字を書いてみてください。
中に表と言う字が入っています。
表と言う字には裏という字は含まれていません。
明かに「表」と思うことはそれでよいのです。
「裏」と思う場合、少しも表という見方は出来ないか?と考えてみてください。
儒教では、仁、義、礼、智、信、というものを重んじています。
漢字で意味は何となくでもお分かりかと思います。
しかし、これも戦国武将の伊達政宗の名言で
仁に過ぎれば弱くなる
義に過ぎれば固くなる
礼に過ぎれば諂(へつらい)となる
智に過ぎれば嘘を吐く
信に過ぎれば損をする
という五常訓もあります。
仁、義、礼、智、信、も行き過ぎると良くないという意味です。
愛を受けて育つ、育てるとは?
子どもが育っていく上で、愛というものはとても重要です。
両親がいなくても、ひとり親でも、親がおらず祖父母でも、他人でも
愛を受けて育つということは可能です。
なので、親がいないことやひとり親であることを引け目に思う必要はありません。
重要なのは受けた愛のバランスです。
人は生まれた時に皆、赤ちゃんであるということは一緒ですが気質などは違います。
親というのは使命ではなく、その時の「役目」です。
(以下、親がいるということを前提に書きますが、いなくても愛を受けて育つことはできます)
親という字は「木の上に立って見る」と書きます。
子どもが可愛いあまりに、なんの失敗も無いように親が手助けしすぎるのは
いけません。
成長の機会を奪っています。
子どもはそれぞれに気質があります。
親が100%の愛を与えている、と思っていても、子どもの気質によっては
1000%欲しいという子もいますし、
10%で充分愛を感じられる気質の子ならば、100%は多すぎて、親に対して愛情過多と思う場合もありますのでバランスが難しいともいえます。
(思春期や反抗期の親を鬱陶しいと思うものとは違った意味での愛情過多です)
子どもが複数いる場合、皆同じ気質をもっているとは限りません。
40代を過ぎ50代、60代になっていても、ご自身の親との関係に悩まれる方も多くいらっしゃいます。その悩みの元の親が存命していなくてもです。
支配的な親は、支配することで愛を感じようとしている場合も多いです。
自分の言う事を聞くから、自分は子ども(パートナー・配偶者等)を支配出来ているから愛されているんだと勘違いをしています。
子育て中の方は、支配と躾けは違うということ、その子に合った愛の量を意識してみてください。じっと見ていればお分かりになるかと思います。
(何日も必要です。1日では解りません。)
忙しくてお子さんと差向う時間が短くても、子どもの動向をじっと見るという事は可能です。
差向う時間が短いから愛を与えられないということはありません。
親が支配的であった為に今も悩まれている子どもの立場の方は、その親自体が愛を間違えているという場合が多いです。
間違えている=善いこと ではないので、いつまでも親の言うことを聞かねばならない、親の言いなりにならねばならないということはありません。
ご自分が生きていく上で、ご自分の人生です。
親の人生ではありません。
そして、ご自分のお子さんもそのお子さんの人生で親の人生ではありません。
セッションをお断りさせていただくとき
サイトにも書いておりますが
お申込みを頂いた時点でも、継続的に受けてくださっていても
セッションをお断りする時があります。
理由は大まかには
①「Mreadingのセッションを受けずとも善い道に行くことが出来る方」
②「今はセッションを受けないで、休みが必要な方」
③「セッションをしても『善い道』に行こうと努力することをされない方」
です。
①の方はご自分で切り拓ける力があるのですから、Mreadingに来る必要がありません。
②の休みが必要な方の理由は色々ですが、
セッションで色々な事をお伝えしても疲れているので私がお伝えすることが
頭や心に入りにくいという理由が多いです。
感情や思考の整理をしていただいて、その後ご縁があればお申込みをお受けいたします。
(こちらからお誘いすることはありません)
③の方は、Mreadingを「当て物扱いし続ける」方です。
Mreadingでは「未来を観て善い道へ導く」ということをします。
未来を観るということが特殊なことですので、最初の数回はそこだけを目的に来ていただくのはかまいません。
人は誰しも未来が不安ですので最初の数回は当て物気分でお越しいただいても良いのです。
例外では、お仕事についてどう動けば善いのか?という方は定期的に未来を観て善い方向への答えをお伝えしています。
未来を観ることと・アドバイスの実行・善い道 はセットです。
ご自分がただ楽しく、先だけ教えてください、その先が自分に都合が良くないなら
努力はしないけど変えてください、良い事だけ教えてください、
というようなお考えを持ち続ける方はお断りさせていただきます。
時間の無駄である、と考えます。
人間は元々、全員が神とつながっています。
ただ、繋がれる能力が時代と共に劣化している方が多いというだけです。
お断りする方々は、あくまでMreadingを介して繋がることをいたしませんと
いうことになります。
慢心とは
修行をし続け、慢心をせずに生きて行かないと
スピリチュアリストとしての力は劣化します。
慢心とは何か?
いい気になること、おごり高ぶることです。
慢心と自信は似ているようで異なります。
何かに直面した際に、直視をし、乗り越えることができると信じることは自信、
直視することなく、根拠なく、ただできると漫然に思いこんでしまうことが慢心です。
スピリチュアリストの不思議な力は、その人の力ではなく
あくまでお借りしているものです。
その力を善い方へ使わないのならば、使えなくなっていきます。
厳しく言えば、スピリチュアリストが不思議な力を「自分自身がすごいから」と少しでも思えばそれはもう慢心です。
一般的なお話しで言えば、「私は特別だ」と自惚れることも慢心ですが、
自分が出来ることを「人も出来るだろう」ということも慢心です。
自分の機嫌は自分でとる努力をする
自分の人生航路を飛んでいるのですから、自分の機嫌をとることも
あなたという飛行機の機体のメンテナンスになります。
特定の人に対して無視やため息、不機嫌、やるべきことをやらないということを
「受動的攻撃性」と言います。
受け身だけれど攻撃をする、それが受動的攻撃性です。
以下受動攻撃と書きます。
(このブログでは軽くしか扱いませんのでご興味があれば検索してください)
誰しも悲しみや辛さのあまりに態度に滲み出てしまうという時もあるとは思いますが
受動攻撃をする人は性格の一部なので、自分で直さない限りずっとし続けます。
それが歪んだコミュニケーションの1つになってしまっているのです。
子育てをしている人が子どもにそれをし続けると、子どもは人の顔色ばかり見る子に育つ可能性が高いです。
そして、受動攻撃をしやすく、誰かにされやすい人になってしまいます。
受動攻撃をする側は、初めは皮肉を言うなどして軽いジャブを打って様子を見ます。
そしてあなたを「攻撃していい人だ」と認識するとずっとしてきます。
ずっと機嫌が悪いならば離れることもすぐに思いつくかもしれませんが、そういう人はある時はご機嫌で優しく、自分の気分によって攻撃してくるのです。
(関係性によりますが)
大きく分けるとあなたをコントロールしようとしているのですが、それにのってはいけません。
相手の機嫌が悪かろうが、ため息をつこうが、あなたには関係ありませんので
相手の機嫌なんて取らなくていいのです。
思春期ならまだしも、いい大人になって機嫌を出すということは
愚か者のすることです。
相手を変えることはとても難しいことです。
そういう人が周りにいて、離れることが出来るならば、それが1番のお勧めです。
離れられないような関係性ならば、ため息をつかれた時に「どうされたのですか?」
と聞くのも1つの対処策です。
その時に、恐る恐るではいけません。
「あなたの機嫌の悪さに気が付いて、一応声かけをするが、こちらは
それによって何も変わらない」という意志で聞かねばなりません。
もしくは、全く相手にしないことが出来れば、それも対処になります。
そして大事なことは、まずあなたが受動攻撃をしないことです。
もしため息をつきたいほどの何かがあれば、その理由は言わずとも
「ごめんなさい、今ちょっと色々あって・・・」という一言を添えるだけで
相手は自分のせいではないと分かるので安心します。
それが思いやりであり、コミュニケーションです。
精神状態の上がったり下がったりは、殆どの人間があります。
それを出さないこと、出てしまうなら出てしまうと認識してフォローする、
それが「自分の機嫌は自分でとる努力」です。
人間として、「上」はあっていいと思うのです。
楽しい時、嬉しい時、それを出すのが悪いこととは思いません。
勿論、場合によります。
しかし、下の時は出さないように努力しましょう。
人の為にと思っても
自分以外の人の為に親切な行為をする、という心掛けはとても素晴らしいことです。
でも、何でもかんでも引き受けて、人の分までしてあげるということは
必ずしも「善」ではありません。
人の成長の機会を奪ってるという場合もあります。
相手がご年配の方で、年がいってるからという理由だけで何でも引き受けて
してやってあげてしまえば、その相手の方に成長がありません。
相手が何歳でも「やるべきこと」はあります。
人が「めんどくさいな」と思うことをしてあげるということは一見は親切に
思えますが、そうでない時もあります。
(勿論、親切のみで善である場合もあります)
我慢するという心の蓋
我慢する、耐え忍ぶということが「美徳」であるという風潮がある日本ですが
あまりにしすぎてはいけません。
嫌なことや苦しいことがあっても、心の中の壺にぎゅうぎゅうと押し込めて
蓋をして無かったことにする。
その蓋が一生閉められたままならそれも良いでしょう。
ですが、壺の中へ入れる感情を整理して入れないと、その感情は発酵して
大きくなって、その蓋をこじ開け出てきます。
(全てが発酵するわけではありません。そのまま消滅するときもあります)
ただ単に思い出してしまうということではなく、ねじ曲がった出方をします。
何十年前のものでも、出てくるときはあります。